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思記

力なく、力強い言葉をわがままに創るブログです。

議題1. 「幸福とは」

今日、山形県天童市にて4月22.23日と連日行われた人間将棋へ足を運んで来ました。

今年の来客数は例年の3倍以上だそうです。驚きですね(隣に座ってたおっちゃんの主観的目測調査による)。

僕は純粋な将棋ファンとして、イベントを楽しむつもりで今日を迎えました。

駒となって動く一般の方々。

プロ棋士による百面指し。

そこで出逢った人々で行う対局。

どれも、将棋という一つのボードゲームに人々が吸い寄せられた結果、生じた偶然です。

僕もその偶然の一部となって、少々の満足感と多大な疲労感を得ました。その結果、僕は瞬間的な幸福を感じました。

帰り際には、食べるとたちまち福が舞い降りてくると銘打った大福をお土産に買いました。

はて、「幸福」とは?

今日、というか一年間安定して喉元に引っかかり続けている「幸福」という言葉。

それは、長期的なものと短期的なものとで分かれるとは思うのだけれど、取り敢えずそれは置いておいて、ざっくり言うと、何かしらの要因が何処かを経由して自己に作用し、己に精神的満足感をもたらした際に大小様々に生じるものではないでしょうか。

そうであるなら、そこには、前述の隣のおっちゃんレベルで主観的要素が多分に含まれている。

一方で、現在の発展したと言われている社会では、人々は幸福を何か得体の知れない物として崇め、それを知った神様は僕たちには見えない手で幸福を次々と量産していく。

例えば、他人と違う事に疲れたから普通に生きたいと願う人。

ーーー いや普通ってなんやねん。

自分に個性がないから個性重視社会で生きるには息苦しいって言う人。

ーーーいや皆が個性発揮しまくってたら世の中崩壊するやんけ。なんか、結局社会は、自分たちの求める個性しか欲していない(個性重視とは)。

みたいな。

何だか、つまんない。

つまりここで僕が言いたいのは、量産された幸福と思われる物を人々が幸福だと思い込まされている事実が存在していませんか? という疑問。

もちろん、世間一般に「幸福」と言われる物に自ら明確に「幸福」だという理由をつけられるなら全く問題はない。

要は「幸福」と一般に言われる物を盲信し過ぎてはいないだろうかという事。

自発的に「幸福」を定義づけられているか、という事。

例として、勉強不足で現在もそうなのか全く解らないけど、一昔前の、「結婚=幸福」みたいな概念。

あと、まだ今の僕の力では語りきれないけど、「楽しい=幸福」の方程式への疑念。

言い忘れてる事もあるだろうけれど、今日ははしゃぎ疲れたのでここで止めておきます。

疲労困憊の自分が何を言い出すか流石に不安なので…。

僕も早く幸福を理解できたらなあと願いながら、「福々大福」を頬張りながら、以上を書き上げた次第です。

叱咤激励、お待ちしております。